大学概要

学び続ける力でVUCA時代を先導する人材に

 公立大学法人として2018年に再出発した公立諏訪東京理科大学は、起源とする短期大学、私立大学時代を含めて30年以上の歴史を有しています。その間、理工学を基盤とした教育研究を推進するとともに、工学と経営学の融合教育を行い、地域社会に対して人材輩出や共同研究等で寄与することを目指してきました。
 一方、現代は、Volatility(変動性)・Uncertainty(不確実性)・Complexity(複雑性)・Ambiguity(曖昧性)の頭文字をとったVUCA時代「先行きが不透明で、将来の予測が困難な時代」と言われています。このようなVUCA時代には、本質的な課題を発見し、解決する力、本質を見抜く力が不可欠です。また、自らの頭で考え、感性や経験に基づいて創造的なアイデアを生みだす力も必要です。さらに、新たな事柄に対応するために、汎用性の高い基礎力を身に付けることも重要です。これまでも大学では、このような力を培うための教育が行われてきたと思いますが、VUCA時代にはより一層これらの力を培うための教育に取り組む必要があると考えます。
 そのための教育としてSTEAM教育が注目されています。STEAM教育とは、理系分野の複合的な知識を持つ人材を育成するためのSTEM教育(Science(科学)、Technology(技術)、Engineering(工学)、Mathematics(数学)の頭文字)に、Arts(リベラル・アーツ)が加わったものです。大学でのSTEAM教育において「A」の充実が理系分野の教育である「STEM」をより活かすことになり、「A」の部分がそれぞれの大学の特徴を表すことにもなります。是非幅広く「A」を学んでほしいと思っております。
 様々な角度から学び、専門教育だけでなく、幅広い知識を身に付け、貪欲に新たな学びを心がけ、VUCA時代を先導する人材に成長していってほしいと期待しています。そして、地域社会を含む広い社会で活躍することにより、公立諏訪東京理科大学が地域の「知の拠点」と認知されることを願っています。

公立諏訪東京理科大学 学長
濱田 州博

建学の精神 理学の普及を以て国運発展の基礎とする

 明治39年、卒業生の資金協力を得て、牛込神楽坂に校舎を新築し、神楽坂における教育が始まりました。新校舎は、木造二階建226坪(747m2)の白亜の瀟洒な建物で、北原白秋が「物理学校裏」と題する詩を著し、夏目漱石が主人公を物理学校に入学させる「坊ちゃん」を発表したのもこの時代です。

 牛込校舎には、定性、定量の化学実験室と物理実験室が設備されており、これは大正時代の代表的な理学のための実験室でした。

 この実験室は1年次の難関を突破して2年次に進級しなければ入ることができず、理科の学生にとっては白衣の実験着を着ることが憧れなのでした。

 我が国初の物理学者は、各人の得意とする外国語により、英語物理、仏語物理、独語物理の3系統があり、しかも、その訳語も各々により相違したため、異なる物理学用語を統一する必要が生じ、このため当時の物理学者のほとんどが会して統一的な訳語を作る作業が始められました。

【1881年】 ─ 東大出身の若き理学士21名が標す夢の第一歩
 明治14年、東京大学(旧帝国大学)理学部物理学科の卒業生21名により東京理科大学の前身『東京物理学講習所』が創設されました。授業は夜のみ、教室は小学校の間借り、機材は母校東大からその都度借り出しては返却するという艱難辛苦の毎日ながら、平均年齢25才の若き理学士たちは、「理学の普及が国運発展の基」という理想を掲げ、仕事の傍ら無給で生徒の指導にあたりました。

【1883年】 ─ ─ 1人30円の寄付で学校を守った『維持同盟』
 明治16年に『東京物理学校』と改称。創立者の一人、寺尾壽氏が初代校長に就任して学校としての形態は整ったものの、財政的に窮地に陥った同校を救ったのは明治18年、21名の創立者のうち16名が結んだ『維持同盟』でした。ここでは、一人30円の寄付と週2回の無償講義、さらに教師が都合で講義に出られない時は理由を問わず25銭を払うという決まりも作られました。

【1889年】 ─ 理学を志す若者が全国から集まった小川町校舎
 飯田橋に始まり、神田、本郷、九段など各地を転々とした物理学校は、校舎が暴風雨で倒壊するという不運をも乗り越え、明治22年、神田小川町に校舎を取得。理数科教員養成校としての評価を高め、以後20年間、理学を志す若者が全国から集う場となったのです。また、この年には同窓会の誕生とともに同窓会誌を創刊。後に日本初の物理学者山川健次郎のX線実験やアインシュタイン理論などを紹介し、理学研究の発展に貢献しました。

【1906年】 ─ 神楽坂に新校舎が完成。理学研究の“メッカ”に
 東京物理学校が現在地である牛込神楽坂に木造2階建ての新校舎を構えたのは明治39年。ここには、受講生が廊下に溢れるほど多くの生徒が集まりました。と同時に、入学は無試験でも進級が難しい、「落第で有名な学校」という物理学校の“伝統”も、この頃から始まり、世に知られるようになりました。

【1916年】 ─ 私学初の理学博士誕生。最先端の実験室も完成
 維持員の手を離れて財団法人となった翌年の大正5年、卒業生の小倉金之助氏が理学博士の学位を取得。私学初の快挙でした。また、この時代には神楽坂校舎に最先端の設備を持つ化学と物理、二つの実験室が完成。ここに入室するには2年次に進級することが必要なため、白衣の実験着は学生の憧れとなりました。

【1930年】 ─ 実力主義を唱え続けて迎えた創立五十周年
 明治期に理学教育の先駆的存在たる地位を確立した東京物理学校には、昭和16年の太平洋戦争勃発後も全国から志願者が殺到。学徒動員に伴う修業年限の短縮や国命による無試験入学の廃止、戦災による神楽坂一帯の焼失という事態に直面しながらも、万難を排して授業を続行。昭和20年8月15日の終戦の翌日から授業を再開したというエピソードも残っています。

【1949年】 ─ 『東京理科大学』の名のもとに新時代が開幕
 昭和24年、東京物理学校は学制改革により名称を『東京理科大学』と改め、理学部のみの単科大学として新たなスタートを切りました。昭和35年に薬学部、昭和37年に工学部、昭和42年には千葉県野田市に理工学部を新設し、理工系の総合大学へと大きな飛躍を果たしたのです。

【1981年】 ─ 創立百周年を機に続々と時代を先駆ける試み
 昭和56年に創立百周年を迎えた東京理科大学は、記念事業として神楽坂に新1号館を建設。昭和62年には野田に基礎工学部を新設。また同年、地方における技術者養成を目指して山口県小野田市に東京理科大学山口短期大学(平成7年より山口東京理科大学と改編)を、平成2年には長野県茅野市に東京理科大学諏訪短期大学を開学。さらに平成5年には埼玉県久喜市に理学・工学をベースに経営学を学ぶ理科大ならではの経営学部が増設されたのです。

【1990年】 ─ 東京理科大学諏訪短期大学開学

【2002年】 ─ 工学と経営学の融合教育「諏訪東京理科大学」開学
 平成14年4月、東京理科大学諏訪短期大学からの改組転換により諏訪東京理科大学が開学。社会の変化に自ら対応できる基礎専門の教育を徹底したうえ、新しい時代に求められている「工学と経営学の融合教育」を教育の1つの柱に、さらに情報リテラシーと環境マインドの育成にも努めています。

【2006年】 ─ 平成18年4月、諏訪東京理科大学大学院の設置
 工学・マネジメント研究科(修士[工学]、修士[経営])に、テクノロジーコース、社会システムコース、マネジメントコース、MOTコースと4つのコースに分かれます。

【2012年】 ─ 平成24年4月、諏訪東京理科大学大学院博士後期課程の設置

【2018年】 ─ 「公立諏訪東京理科大学」開学
 2018年4月、諏訪地域6市町村(岡谷市、諏訪市、茅野市、下諏訪町、富士見町、原村)からなる諏訪広域公立大学事務組合が公立大学法人公立諏訪東京理科大学を設立、公立諏訪東京理科大学が開学しました。地域に一層貢献する大学として、地域産業・文化の振興、地域創生に寄与し、ひいては科学技術の発展や新しい産業の創出を通して、地域と我が国の将来の発展に貢献することを目的としています。